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イザイホウを描くためには、命がけで、海へ出て行く男たちの姿をとらえる必要がありました。なぜなら、イザイホウは、島の女が神になるまつりですが、それは男たちを守るためなのですから。
遠洋漁業に出ない島の男たちは、サバニで一本釣りに出かけます。小さなサバニですから、私たちスタッフが同乗することができません。撮影のための船を得るには、チャーター料が必要でした。

そうこうしているうちに絶好の撮影日和(海の荒れた日)がやってきました。後でチャーター料を送るということでお願いするしかないと海辺でみんなで話していると、友人の漁夫が海仕度でやってきました。
「今日は久高漁夫のほんとうの姿が撮れる日だよ。俺は漁を休んで撮影に付き合うよ。チャーター料?いらない、いらない。油代もいらないよ。久高の海人のほんとうの姿を撮ってほしいんだ。」というじゃありませんか。私たちは嬉しくなって喜び勇んで海へと出たのです。
海は大波が荒れ狂っています。漁夫はそんななかでサバニに仁王立ちして釣り糸を操るのです。私たちは夢中で、勇壮なその姿を追いました。
ところが − アッという間もありません。キャメラに波がかぶってしまったのです。
浜に上がったときは、キャメラはもうまったく動きません。まだ祭りも始まらないというのに一台しかないキャメラが故障してしまったのです。代替機を送ってもらうことは私たちにはできません。私たちは頭を抱えてしまいました。
その時、キャメラマンのSが「俺が直す、2・3日時間をくれ」と決然といったのです。Sもキャメラは廻せても、キャメラの構造などわかるはずがないのです。でも任せるしかありません。
図面を引きながら、1日かけて分解しました。そして、油で一つ一つ洗浄し、図面を見ながら2日かかって組み立ててゆきました。Sは、夜もほとんど寝なかったと思います。そして3日目に組み立て完了。テスト!快調なモーター音が聞こえました。
私たち3人は、飛び上がって喜びました。
今考えてもどうしてもわからないのは、ビスが3本あまったことです。書き出した図面の通り組み立てたはずなのに、どうして3本のビスが余ったのでしょうか。Sはいつまでも首をかしげていました。
島での私たちのくらしは、人間生活の原型に近いものでした。かまどで火をおこし、汲み置きの水で米を研ぎ、汁をつくります。暗くなれば、ランプに灯をともします。電気・ガス・水道などすべてがない、実にさわやかなくらしでした。
島では水汲みは子供たちの仕事でした。毎日何度も、西海岸のカー(井戸)から空缶やバケツに水を汲み、それぞれの家へ運ぶのです。私たちの宿舎へも運んでくれるのです。
宿舎には大きなかめに汲みおきの水がためられていました。雨がふれば、雨水もそこへたまるようになっていました。
水がめには、いつもボーフラが浮かんでいました。子供たちが、せっかく運んでくれた、あるいは、天から恵まれた貴重な水を、ボーフラがわいたぐらいで捨てることはできません。かめのふちをポンとたたくと、スッとボーフラが沈みます。その間に汲みあげるわけです。

ある日、久高島へ小さな発電機が上陸してきました。大人たちが小さな発電機を取り囲んで長い間、ああでもないこうでもないと嬉しそうに話し込んでいました。その夜から、一部のおもだったところで、一定時間電気がつくようになりました。静かな島に、発電機の音が響きました。そして、ある家でテレビが映ったのです。大人も子供もその家へ寄り集まって、大きな音の小さなテレビに釘づけになりました。窓の外にも、上気した大勢の子供たちが群がっていました。

私たちは、毎日相変わらず島の中を歩き回りました。学校が終わる頃になると、いつも10名以上の子供たちがついてきます。そして機材など荷物を持ってくれました。私たちはすぐ子供たちと仲良しになりました。
子供たちは、島のいろいろなことを教えてくれました。神の島であるこの島には、立ち入ってはいけないとされる神聖な場所があちこちにあります。子供たちは何でもどこでも知っており、いろいろ教えてくれるのです。立ち入ってはならないそんなところを撮った後など子供たちと私たちの間に共犯者同士のような連帯感が生まれて、私たちと子供たちはますます仲良しになったのです。
私たちは、毎日いつも十数名の大スタッフ(?)で島を歩き回っていました。真に楽しい撮影行でした。
年の瀬が迫るに従い、日一日と寒さが身にしみるようになってきました。
南国沖縄が、こんなに寒いとは思ってもみませんでした。私たちには、毛布が一枚ずつあるくらいで、まともな寝具など全く用意していなかったのです。宿舎は板の間で畳などはありません。私たちは毛布にくるまって寒さをこらえて寝るしかありませんでした。

そんなある日のこと、掟神のNさんたち3人の神人が、それぞれ頭に二枚の布団をのせてニコニコしながら私たちの宿舎へ入ってきたのです。私たちは福の神が迷い込んできたかのように驚きました。
当時、学校(久高小中学校)の先生方は、それぞれ宿舎に住み、週末に本島の自宅へ帰るという生活ぶりでした。そんな一人に、馬天に家のある若い女の先生がいらっしゃいました。その先生が週末に帰ったおり、わたしたちが寒かろうと3人分の布団を船で運んできて下さったのです。それは私たちの全く考えてもみなかったことで、大変恐縮したことでした。
あの頃、久高航路は馬天港とつながっていました。たまたま桟橋に荷揚げされる布団を見たNさんたちが、私たちの宿舎への運搬を引き受けて、あの日福の神の訪れとなったのでした。
翌日、子供たちの嬉しそうに笑っている、ワケありげな顔を見て、アッと気づいたのです。子供たちが先生に私たちの惨状(?)を話したに違いありません。恥ずかしさに身の縮む思いをしながらも、たいそう嬉しい気持ちになったことを覚えています。
その日から、私たちはみんな暖かい布団のなかで、ぐっすり眠ることができました。
本祭一ヶ月前の「御願立」の儀も終り、ナンチュたち(今度の神事で神女となる30歳から41歳までの女)が、定期的なウタキ参りをくり返し、島は日一日と緊張感が盛りあがってきました。
そんな一日、私たちはスタッフの命綱であるロケ費が底をついていることに気がつくのです。
「おい、金がないぞ。どうする?」
「いまさらどう出来る?米さえあれば、ひと月やふた月人間死ぬようなことはないよ。」
幸い米と塩だけは十分ありました。
「野菜は野にニガナがいっぱいあるじゃないか。芋のかずらをつんでも誰も文句はいわないよ。どうしてもタンパク質が不足するようなら、一日休んでみんなで魚釣りをやろうじゃないか。」
「あ、それはいい!」と、みんな金のないのも忘れて釣りの計画に夢中になったのでした。
私たちスタッフは、その出発点から、ビンボーにはあまり驚かない体質を持っていたのです。沖釣りは船がないからできません。磯釣りしかありません。ここでまた、子供たちの登場です。どこで何が釣れ、糸の長さは、釣り針の大きさは、と、小さい師匠について、現場実習を積み重ねたのです。
一方、島の人々の暮らしには、清貧と言っていいような清々しさがありました。
生産用具といえば、サバニと漁具、鍬、鎌とカゴぐらいで、いわゆる文化的な色合いの不純物は何一つありませんでした。この貧しさの爽やかなトーンが私たちのビンボーという通奏低音と共鳴したのかも知れません。
この後、私たちの暮らしに全く思ってもみなかった事態が展開することになるのです。
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